(5)「鉄(機械)」の産業技術

 かつて「鉄は国家なり」と言われ、製鉄業はもっとも重要な基幹産業と位置づけられました。しかし、名古屋は戦後の昭和39年の東海製鉄、後の新日鐵名古屋製鐵所の操業まで、本格的な高炉を備えた製鉄所を持ちませんでした。しかし、名古屋には電気炉による鉄鋼業が育ちました。
 明治22年、大日本帝国憲法が公布され、名古屋市制が施行され、東海道線が全通したこの年、市内に初めて電灯をともした名古屋電灯、後の中部電力は、明治末期に水量豊かな木曽川水系の電源開発に着手しました。
 当時の社長で、福沢諭吉の女婿であった福沢桃介は、希代の相場師とか、日本各地の電気事業を取り仕切った電力王と呼ばれ、女優川上貞奴とのロマンスなど、波乱に富んだ生涯をおくった辣腕の経済人ですが、彼は新会社を起こす名人でした。
 桃介は、水力発電の余剰電力を活用して、従来のるつぼ炉ではなく電気炉による特殊鋼の生産をはじめました。それが大正5年設立の電気製鋼所、後の大同特殊鋼です。
 また、彼は、矢作水力を傘下におさめ、昭和8年、矢作工業、後の東亞合成を設立し、化学工業を起こしました。さらに、矢作工業から副生する硫酸焼鉱を原料として、電気炉による銑鉄の生産を行うため、昭和12年に矢作製鉄、後のヤハギを設立しました。
 一方、機械の産業の系譜は、徳川家康の時代の和時計にさかのぼることができます。日本に機械時計が普及したのは、ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが周防の大内氏に献上したものが最初と言われます。その後、朝鮮から渡来した使節から献上された徳川家康所蔵の時計が故障したとき、後に尾張藩士となる津田助左右衛門が修繕を引き受け、そっくり同じものを作り上げました。このことが縁で、助左右衛門は尾張藩の初代藩主義直の家来となり、御時計師鍛冶職頭として、彼の子孫が時計の技術を伝えました。ですから、名古屋は日本の時計産業の中心だったわけです。
 また、手作りで高度な精密機械である和時計をつくる技術は、その後からくりの技術に伝播しました。京都から移り住んだ人形師玉屋庄兵衛によって、名古屋は「山車からくり」の中心になりました。現在、九代目の玉屋さんが活躍中ですが、日本で唯一のからくり人形師です。玉屋さんがからくり人形に使う木製の歯車を実際に見てみると、何枚も組み合わせた、それはもう硬くて丈夫な歯車であることに驚かされます。
 和時計やからくり人形が守り育てたモノづくりの蓄積は、明治となり、鉄を素材とする機械産業に生かされました。機械の技術は、その後、木や糸や土の産業と相乗効果を発揮するような形で発展し、名古屋地域はそれらの素材を加工し、部品を生産し、組み立てる機械工業、産業用ロボットのメッカとなりました。
 名古屋から育った有名な工作機械メーカーとして、明治32年に創業した大隈麺機商会、後のオークマは、社名のように製麺機の生産からスタートしています。また、大正8年に創業した山崎鉄工所、後のヤマザキマザックは、製畳機や木工機械の生産からスタートしています。
 今日、名古屋地域には工作機械、鋳造機械、産業機械、組立機、繊維機械、木工機械、包装機械、レーザー加工機、射出成形機、チップマウンターなどのトップメーカーが多数集積しています。ユニークなところでは、製畳機、自動車洗浄機、交通情報機械などのトップメーカーも活躍しています。これらの機械工業の厚い集積の上に、名古屋の代表産業である自動車産業が成立しているといっても過言でないでしょう。